こんばんは。
今日は、夜の7時半から夕礼拝。
新しくお見えになった方がいらっしゃいました。
若者がこの近辺で事故にあうことが多いので、そういったことが起こらないように祈りたいと思い、足を運んでくださったとのことでした。うれしかったです!
うちの教会は、西南学院大学の創立者であるC.K.ドージャー先生が、「イエス・キリストの福音を、西南学院の教職員・学生・生徒・園児に、また福岡市内に住む人々にお伝えするために」1922年(大正11年)に設立された教会です。
(大学は学校法人、教会は宗教法人なので、運営は全く別個です。)
ですからこうして、地域の方が訪れて下さると、本当に嬉しいです。
かく言う私は、最初は大学のチャペルに行ったのです。ほんとにフラリと。
ちょうど複雑な苦悩の中にあった頃で、心の深い部分で救いと赦しを求めていたのですね。
その時の説教に感銘を受けて、それを機会に教会の方へ通うようになりました。
私たちは、意識しているとしていないとに関わらず、様々な苦悩や怒りや妬みや嘲りを胸の内に抱えています。
私はそれ自体は悪いことではないと思っています。
人間ならば、状況に応じて様々な、ネガティブな感情が浮かぶのはごく自然なことです。
ですがそれは、表面的、一時的な「感情」に留めるべきだと思います。
心の深層に奥深く抱え込み、己の人格にまで取り込んでしまうべきではありません。
なぜなら「こんな自分には赦しなど及ばないのだ」という考えに、自分自身が囚われてしまうからです。
本当は強く濃く求めている赦しなのに、かえってそこから遠ざかる結果になってしまうからです。
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソの信徒への手紙 4:31〜5:1)
例え負の意識に支配されようと、私たちは本来的に赦されて在る人間です。
ただ目隠しされて、それに気付いていないだけで。
だから本当に強く赦しを求めれば、自然と負の束縛から逃れよう、本来的な姿に戻ろうとする心が働きます。
赦しを求めれば求める程、赦そうという心が強まります。
たわめられた枝が真っ直ぐに戻るように。そこに、神様が働かれているのです。
だから、もっと強く、もっと自由に存分に「赦し」を求めていいのではないでしょうか?
教会に通う前の私自身もまた、既にそこにある赦しから遠ざかっていた一人でした。
囚われの身であった私を、救ってくれたのが教会であり、赦してくださったのは神でした。
どうか、私たちの教会が多くの人たちにとって、その一助となる場所でありますように祈りたいと思います。
おしまい。