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§ともさん

Author:§ともさん
西南学院バプテスト教会で、2007年4月にバプテスマを受けたばかりの新米クリスチャン。
新米なのに「もうずーっといるみたいねー」と言われる。あれ?
現在、教会のホームページ管理委員と聖歌隊で奉仕中。

ねこと二人暮しをしています。名前はノアです。
のーたんと呼んでやってください。とんできます。

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友のために

こんばんは。

福岡城址のお堀の蓮の、刈り取り作業がだいぶ進んでいました。
堀にいかだを浮かべて、業者の人たちがざくざくと、枯れかけた蓮の枝を刈り取っています。
綺麗になった水面に、ちょっと冷たい空が映り込んできらきら、ガラスのかけらみたいで綺麗。
冬が近付いています。

さて、これは一昨日の話。

ホームヘルパー研修で通った学校の仲間二人に誘われて、飲み会をしました。
そのうちの一人の家で鍋パーティー。
キムチ味のスープに野菜やらイカやら豚やらぶちこんで、焼酎を飲みながら、福祉の話にマンガやらアニメやらの話と大盛り上がりしました。

職を転々として学校に行き着いた男と、現ミュージシャンで学校に行き着いた男と、本職はSEなのに何故か学校に行き着いた女の三人。
多分普通にしてたら出会わなかったであろうこの三人がですよ。
一つ部屋でげらげら笑い合いながら鍋をつついているわけです。
人の縁とは奇妙なものです。一瞬先も分からない。
でも、ある一点を同時に捉えた人々だけが、こうして友人になれるのです。
偶然にも。あるいは何かに導かれるように。

かつて、イエス様は弟子達にこう伝えました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書 15:12)

命を捨てるくらいの覚悟で互いを愛し合うことこそが、生涯の友人というものなのかもしれません。
ユダによる裏切りと逮捕の直前。
イエス様は、三年も伝道の旅を共にした彼らが、最後は自分を裏切り、あるいは見捨てて逃げ出すことをお見通しでした。
それでも、「私はあなた方を友と呼ぶ」と仰いました。
全てを承知の上で、自分がいなくなる後の新しい掟として「友を愛せよ」と伝えたのでした。
なんと大きな愛だろうか、と思うのです。

私たちはまだ、出会ったばかりです。
ケンカをすることもあるでしょう。
もしかしたら仲違いして、疎遠になることだってあるのかもしれません。
でも、先のことは先のこと。今はまだ分からない。
今はただ、出会えた奇跡を純粋に喜ぶばかりだけれど。
本当に真実の友人になれるように、これから先、愛をもって付き合って行きたいです。

皆さんも、良い出会いに恵まれますように。
そして今、ご友人と疎遠になっている方もどうか、これでおしまいと嘆かないで下さいね。
これもまた、より深い関係を紡ぐための、神様の大きなご計画の一段階に過ぎないのかもしれないのです。
私たちがそれぞれの友と、自分の重荷を担いつつ、互いの重荷をも担い合えますように。
そんな風に、強く優しい関係になれますように、祈りたいと思います。

おしまい。

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命への確かな道

今朝は寒かったですね!in 福岡!
この秋初めて、ファー付きのジャケットを着て出掛けました。
自転車の風除けにサングラス。乾いた空気が目に痛い!

ところでワタクシ、本日より、グループホームでのボランティアを始めました。

グループホームは、最大9人の認知症の高齢者が共同生活を行う施設です。
最近ホームヘルパー2級の資格を取得したので、もっとこの世界を知り、経験したい。
それで、何とかかんとか努力して、ボランティアの道を確保したのでした。

さて、全員が初対面の利用者の皆様方。
同じ話を何度も繰り返す。
脈絡のない単語を語り続ける。
大声を出したり、歌を歌い続ける。
誰かが私のものを盗むと訴え続ける。
諸々、諸々。

その中で、私に課せられた仕事は「利用者さん達と会話をする」ことでした。

スタッフは、食事の準備に洗濯や清掃、作業がたくさんあります。
その間、利用者さん達とコミュニケーションを取ることが困難になります。
「だから落ち着いて座って、ゆっくり話をしてもらうことが、一番助けになるのよ」とのこと。

さあ、想像してみて下さい。これが何と難しいことか!!

私が一日を通じてずっと感じていたのは、命というものの偉大さでした。
明治42年生まれ、百歳以上の方がお二人。
私が昭和46年生まれ、60年以上の開きがあります。
戦争はもちろん、関東大震災も経験済。
そんな百歳以上の方に会うのは、初めてのことでした。
「すごーい、かっこいい!!」
思わず口をついて出て、利用者さんに笑われたものでした。

休憩時間の都度、「神様、どうか私と彼らに通じる道を開いてください」と祈りました。
生活環境も年齢も、大き過ぎるほど違う私達の間の壁を、どうか取り払ってくださいと。
祈る度に、少しずつ、気持ちが変化して行きました。
自然な笑顔が浮かび、何だかここにいるのが楽しいな、と感じるようになったのです。

一日を終えて、所長が話し合いの時間を取って下さいました。

「認知症の人としてではなく、まず人間として捉えること。言葉や意志を明確に表現できなくても、利用者さんたちには『伝えたい』という気持ちがあるんだよ。」

単に生活のお世話をすることではなく、より本人の気持ちに近付くこと。
それが、この仕事の目指す目標。
そのために、偏見のない観察を繰り返し、スタッフ間での話し合いを繰り返す。

「そして何より、『楽しむこと』。これが一番、大切なことだよ。」

最後に所長はそう仰って、話を締めくくったのでした。

慈善を蒔く人の収穫は真実。
慈善は命への確かな道。…
命は慈善の道にある。
この道を踏む人に死はない。
(箴言 12:18,19,28)

今日一日の私が、立派に慈善の道を歩めたという自信はないけれど。
スタッフの皆さん、利用者の皆さん、ホームの雰囲気を見ていて。
ああ、慈善とは、何と尊い命の道であることか。
私もその道を、真摯な心で歩みたい。そう思ったのでした。

高齢者の皆さん、そしてその方々のために働く福祉の仲間達の上に、主の祝福が豊かにありますよう、どうか健康が守られますよう、祈りたいと思います。

おしまい。

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心を新たにする

急に冷え込みが厳しくなった秋の福岡です。
今日はこの秋初ストールを巻いて出掛けました。自転車に秋風が厳しい!
夕方には、大きな西日がまぶしく目を射します。サングラスがいるかな?

さて。

自分を取り巻く状況が、厳しくなる時ってありますね。
思ったように運んでくれない。
皆が自分の邪魔をしているように感じる。
正直、若干イライラします。
キレて周りに当たりたくなったり、逆に自分の内側に閉じこもり、自分の心を攻撃したくなったりします。

そういう時、皆さんはどうしますか?

昔の私は、お酒に逃げていました。
幸か不幸か、非常にアルコール代謝の高い私は、深夜から朝まで度数の強い酒をかたぱし飲んでいたものです。
でもそういう時のお酒って、酔いが回るどころか逆に意識は明晰に研ぎ澄まされてしまうことが多いんですね。そしてネガティブに思考する。
だから、さらに飲み続ける。悪循環です。

今の私は、とりあえず、聖書を開きます。

「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい。」
(ローマの信徒への手紙 12:2)

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
(フィリピの信徒への手紙 2:14〜16)

状況を変えるには、まず自分を変えた方がよいのだと思います。
一見遠回りのようにも感じます。大変なことのようにも思われ、おっくうに感じたりもします。
でも、急がば回れです。
時間をどう使うかは自分次第。
不平不満を言い、自分の心を汚い言葉や暗い思いでいっぱいにする方が得策でしょうか?
今の私は、そうは思いません。

この状況をどのように活用し、さらに自らを向上させるかを考える。
そういったポジティブな思考こそが、己の行動を変え、周囲の心を動かし、状況を変化させるものだと思います。
そんな風に出来るよう、心新たな自分へと、今の黒く固まった自分を変えていただく。
変えてくださるのは、私たちを常に見守っていて下さる神です。

だからまずは、心静かに黙想し、祈る。
そういった時間を持ち、大切にしたいものです。
日々の様々な困難や、目まぐるしく錯綜する多種多様な情報の中にあって、ともすれば状況に流されてしまいがちな現代の私たちには、そういった時間がきっと必要なのだと思います。

おしまい。

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それは階段のように。

今日は、久しぶりにすごく辛いことがありました。

腹が立つやら、悲しいやら、情けないやら。
ぼろぼろぼろぼろ、泣きました。

誰も助けてなんかくれない。
一人で立たなきゃいけない。
負けちゃいけない。頑張らなきゃいけない。
頭の中が「いけない」「いけない」でぐるぐる回る。

散々泣いて泣きはらした顔を化粧で直して、九州バプテスト神学校へ行きました。
新約聖書概論、うちの教会の踊先生の講義です。

鳥飼教会の十字架を見たら、何だか少しほっとして。
それでもはたから見たら、様子がおかしかったのかもしれません。

「久しぶりに会いますね、元気ですか?」と声をかけてくれる教会員の人がいました。
「これおいしいよ」と、冷たい麦茶を注いでくれる仲間がいました。
「卒論が間に合わないよ〜!」と明るく嘆く若者がいました。
「一人で帰ると危ないから一緒に帰ろう」と、途中まで一緒に自転車で帰ってくれる仲間がいました。

家に帰ってから、今日習った「フィレモンへの手紙」を振り返りました。

コロサイにあるフィレモンさんちの教会に、オネシモという奴隷がいました。
オネシモはフィレモンさんのお金を盗んで、エフェソに逃げてきました。逃亡奴隷です。
当時、逃亡奴隷は、額に焼印をおされ、最悪の場合は十字架刑に処せられるほどの辛い扱いを受けていました。

オネシモは逃亡先のエフェソで、パウロ先生に出会います。
そして回心をし、パウロ先生のお手伝いをします。
やがてパウロ先生は、オネシモをフィレモンさんのところに送り返す決心をします。
「忠実な愛する兄弟」として、彼を受け入れて下さいと頼む手紙を添えて。
それが「フィレモンへの手紙」です。

この手紙を受け取ったフィレモンと教会の仲間達は、オネシモを喜んで迎え入れたのだと思われます。
なぜならばその後、イグナチウスという人がエフェソの教会に送った手紙の中に、このオネシモが登場するからです。

『私と会ったオネシモスは、言い尽くせぬ愛の人。…皆彼のようになるように祈ります。』

かつての逃亡奴隷だったオネシモは、時を経て、エフェソの教会の指導者、信仰のお手本にまで成長したのです。

私は今、とてもオネシモを見習いたい。
私には、パウロ先生にあたる、踊先生がいる。
フィレモンの教会の仲間達にあたる、信仰の仲間達がいる。
私は、決して一人ではなく、
信仰という名の私の土壌もまた、ちゃんとここにある。

どんなに辛いことがあっても。
努力して成長して、いずれ人のお手本になることだって出来る。
それは階段のように。草木が育つように。

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
(マルコによる福音書 4:28)

今日は泣いてしまったけれど。まだ、ほんの少し目頭が熱いけれど。
きっと明日はもう大丈夫。
私は、私たちは、決して一人ではないのだから。

一歩一歩着実に、階段を昇れますように、蒔かれた種のように少しずつ、成長することが出来ますように、祈りたいと思います。

おしまい。

「火の夜の経験」

今日は、主日礼拝。
教会での働きが終わって家に帰った後、友人から連絡がありました。

病のために、福岡を去り、遠方にある実家に帰ることになったとのことでした。
もう会えなくなるので、最後にということで、急遽会うことになりました。

その人が病を得て5年、長く患い苦しんできた姿を私は見てきました。
そしてその姿を見るたびに、
「私に出来ることはないだろうか。私は何を言い、またすべきなのだろうか。」
そう考えてきました。

でも今日、その人が涙を流す姿を見て、雷に打たれたように気が付きました。

私は間違っていた。
私は、具体的にこの人のために、してあげられることなど何も無かったのだ。
何かをしてあげられる、出来ると思っていたのは傲慢。
私がすべきことは、ただひたすらに神に祈ることだったのだ。
この人が幸福であるように、守られるように、と。

今日の礼拝で踊先生は、数学者パスカルの話をされました。
彼は31歳の時、「火の夜の経験」と呼ばれる回心を経験しました。
彼がヨハネ伝17〜18章を読んでいた時、彼の心の目に「火」が見えた、と言います。
彼は、一枚の紙にこう書き留めました。(巻頭言から引用します。)

 火、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
 哲学者や識者の神ならず。
 確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神…、
 歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。
 われ神より離れおりぬ。
 願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。

ユダによる裏切りと逮捕の直前の、このイエス様の祈りを、どうして私はもっと深く読まなかったのか。

「わたしは、もはや世にいません。彼ら(世から選び出してわたしに与えてくださった人々)は世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」
(ヨハネによる福音書 17:11)

この世を去る直前、イエス様のなさったことは、残される者たちへの守りを父なる神に願う祈りでした。
繰り返し繰り返し、彼らの守りを祈っているのでした。

涙を流すその人を私は抱きしめながら、一生懸命神様に祈りました。
神様、どうかこの人を守って下さい。
こんなはずではなかったのです。この人は、もっと幸せな人生を送るべき人なのです。
病を癒し、幸せにして下さい。
どうかお願いします。神様、神様、神様。

「祈りは、時空間を超える」と私は信じています。
祈る時、どんなに互いが遠く離れていても、違う時間の流れを過ごしていても、心の距離はゼロになると。
だから、祈り続けようと思います。これからもずっと。

願わくは、われ、永久に神より離れざらんことを。

おしまい。

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