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§ともさん

Author:§ともさん
西南学院バプテスト教会で、2007年4月にバプテスマを受けたばかりの新米クリスチャン。
新米なのに「もうずーっといるみたいねー」と言われる。あれ?
現在、教会のホームページ管理委員と聖歌隊で奉仕中。

ねこと二人暮しをしています。名前はノアです。
のーたんと呼んでやってください。とんできます。

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人生の岐路

ちょっと間が空いてしまいました。
急に冷え込み始めましたね。秋の訪れも唐突なら、冬の訪れも唐突です。
でも冷え切ったきいんとした空気を、私は嫌いではありません。

人生の岐路というものも、唐突にやってきます。

私の前に、突然今とは違うもう一つの道が現れて、私はとても困ってしまいました。
人間的な視点で見た場合、どちらの道にもメリット、デメリットがあります。
それらを比較検討しているうちに、一体自分がどうしたいのかも、よく分からなくなってしまいました。

なので、ただ一心に祈りました。
神様、私はどちらの道を選択すればよいのでしょうか。
どうか私に、御心にかなう、進むべき方向を指し示し、導いてください。

迷う時に読む聖句があります。フィリピの信徒への手紙 4:11〜13です。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

どのような状況にあっても、わたしは束縛から解き放たれて自由だ、それはわたしを強めてくださる主がいらっしゃるからだとパウロ先生は言います。
そう、私には主が傍にいらっしゃる。きっと天からこの岐路を見下ろし、私がより自由に伸びやかに生きられるよう、道を備えてくださるに違いない、そう信じて祈りました。

色々な方から、数々の有益な助言を頂きました。
それらは全て私の心に響き、ぽつりぽつりと雨だれのように落ちては染み渡るにつれて、乱れていた私の心は次第に落ち着きを取り戻し、そして静かに、今回関わって下さった多くの人たちへの感謝と共に、一つの道を選び取ることが出来ました。
自分も、そして関わって下さった誰もが納得する形で。

本当に求めているものを素直に心から差し出せば、それは必ず与えられます。
どれだけ自分が本当にそれを求めているか。喉から手が出る程、渇きの中で水を求めるように。
「祈り」は、必ずしも、綺麗にまとまった美しい言葉で奏でる必要はないと思います。
自分がどうしたら良いのか分からない時は「どうすれば良いのか教えてください」と祈ればよいのです。
ただ、ひたすらに。

その声を必ず神様は聞き届け、適切な時期に、適切な方法でもって、私たちに与えてくださいます。
そのことを心から信じ、神様へ全幅の信頼を寄せる。
それが、キリスト者のキリスト者たるゆえんだと思います。

私は今回、このような試練を与えられたことをまず、神様に感謝したいと思います。
この試練によって私は、心の芯が揺るがないように強められ、以前よりもっと自由に生きられるようになったからです。

今日、迷いの中に在る人々の心に平安が訪れ、その中でより伸びやかに生きられる道への気付きを得ることが出来ますように。
主があなたと共におられ、あなたを強め、進むべき道を指し示して下さいますように。
そう祈りたいと思います。

おしまい。

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内なる人

昨日は、グループホームでのボランティアの二日目でした。

笑顔で、お一人お一人にご挨拶から始めます。

この時、お名前を呼ぶのはとても大切なことだと思っています。
「おじいちゃん」「おばあちゃん」ではダメなのです。
一個人として敬意を払う、それは対人間の姿勢として重要なことで、名前を呼ぶということは敬意の証です。
中には前回来たことを憶えて下さっている方もいて、とても嬉しかったです。

スタッフの皆さんは、相変わらず忙しく立ち働いておられます。
スタッフは大体3〜4人、食事の支度に掃除洗濯、排泄と入浴の介助、軽いお散歩の介助と、殆ど座る暇もない程の忙しさです。
その間も、利用者さんの様子を事細かに観察、スタッフ間で情報をやり取りし、明るい笑顔できめ細やかなケアをする様子に、舌を巻きます。

なかなか落ち着いてコミュニケーションをとれないスタッフの代わりに、利用者の皆さんとお話をするのが、ボランティアの私の仕事です。
キーボードを弾いて一緒に童謡を歌ったり、アメリカの大統領選のニュースで盛り上がったり、愚痴を聞いたり昔話をしたりしているうちに、のんびりと楽しく時間が過ぎて行きます。
その時間の中で私自身の心が、ゆっくりと癒されていくのを感じます。

「一番大切なのは『楽しむこと』だよ。」
初日に、所長から言われたことです。
そして、本当に出来るのかと、一番不安に思っていたことでもありました。

もちろん、認知症という現実は、介護の側面では様々な困難をももたらします。
ですがここでの生活は、実際にやってみると、とても楽しいものなのでした。

そして、その中で「自然と変えられていく自分」に気が付くのです。

「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二 4:16)

人が生きて在ることの尊さを、利用者さんはまだ年若い私に教えてくれます。
人はいつか老いるけれど、今生きてあることの恵み、そしてまた新たにされることへの感謝が、自然と湧き上がってくるのです。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイによる福音書 23:11〜12)

それはきっと、利用者さんとスタッフの皆さんを一日中、人間として尊敬して接して過ごすからだと思います。
そういう時間が、自分に与える影響は大きいものです。
これまでの自分の、ちっぽけな傲慢さに思い至ります。
恐らく人には、守るべきプライドと、捨てるべきプライドがあるのです。

利用者の皆さんの健康が守られ、働くスタッフの皆さんの上に、主の祝福が豊かにありますように。
この世界の高齢者の皆さんが、安心して幸せな生活を送ることが出来ますように。
まだ年若い私たちを、傲慢という名の愚かな罪を犯さぬよう、また日々新たにされるように守り導いて下さい。
そう祈りたいと思います。

おしまい。

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賜物への感謝

友人から、無事仕事が決まったとの連絡がありました。
ああ、よかった。本当にほっとしました。

結果的に、私が紹介した会社に決まったのですが、これは私の力ではなく、本人のたゆまぬ努力と間に立ち働いて下さった神様のお陰です。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:15)

なかなか仕事が見つからない間、一緒に悲しんだり励ましたりした、大切な信仰の仲間です。
こういう場合、具体的に出来ることなど、私たちは殆ど持ち合わせていません。
でも、何も出来なくても良いのです。
ただ傍にいて、感情を分かち合うだけで十分です。

昨今、仕事がなかなか見付からず、困っている人はたくさんいます。
自分が何をしたいのか、何を成し遂げられるのか、道に迷い立ちすくむ人も、たくさん。
私も、自分にどのような才能があり、社会に貢献できるのか、とふと悩むことがあります。

使徒の一人、パウロ先生はこう語ります。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:6〜8)

自分に出来ることがある、それは神様からの賜物です。
だから、感謝して励むこと、それが何よりの奉仕です。

でも特技も何もないし、自分がいなくても社会は回っていくし…とヘコむ前に。
特技じゃなくてもいいじゃないですか。
社会が勝手に回ろうと、いいじゃないですか。

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマの信徒への手紙 12:4〜5)

これは、キリスト者に向けて語られている言葉ですが、一般社会においても同じだと思います。
今自分の目の前にあること、そしてそれが自分に出来ることなら、それに精を出す。
そのことによって助かる人、救われる人は、確実に存在するのです。
自分の存在とは関わりなく回っているように見える社会、それは実は、私たち一人ひとりが部分となって働くことによって成立している、一つの体なのです。
目がなければ見えません。口がなければ語れません。耳がなければ聞こえません。
社会の存在それそのものが、私たち一人ひとりを必要としている証だと、私は思います。

社会の中で、迷いの内にある多くの人たちが、それぞれに与えられた才能に応じた仕事を得られますように。
私たち一人ひとりが、今自分に与えられた能力に感謝し、より良い働きを為すことが出来ますように。
そう祈りたいと思います。

おしまい。

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愛と諭し

三連休の最終日、さえない天気の福岡でしたが、皆さんいかがお過ごしでしたか?
私は今日は完全休日。ひたすら休息に当てました。
明日からまた元気に再起動!

さて、昨日の礼拝で、喜ばしいことがありました。
しばらく教会に来れなかった兄弟が、顔を出してくれたのです。
久しぶりと声を掛けたら、久しぶりと返ってきて、とても嬉しかったです。

ちなみに教会では、互いのことを兄弟姉妹と呼び合います。
男性の田中さんなら「田中兄(あに)」、女性の山田さんなら「山田姉(あね)」といった具合です。
一つの群れ、大きな家族です。

「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性は常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」(テモテへの手紙 5:1〜2)

とは言え、我々クリスチャンも人間同士。
年齢性別の違う者同士、共に過ごせば、問題も起ころうというものです。
クリスチャン限定の問題ではなく、一般社会においても同じことでしょう。
その点、二千年の昔から変わらないのですね。

使徒の一人、パウロ先生は、信徒へ宛てた手紙の中でこのように語っています。
あるものを食べる人もいれば、食べない人もいる。
ある日を特別に大切にする人もいれば、全ての日を同じように考える人もいる。
「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ローマの信徒への手紙 14:5)

「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(ローマの信徒への手紙 14:10)

同じ信徒同士であっても、互いに価値観の違いはある。
そんな時は己の価値観で相手を裁きたくなる。自分は正、お前は悪だと。
でも、裁くのは私たち人間ではなく、神だ。
だからもう兄弟同士で裁きあうのはやめ、愛に従って歩もう、とパウロ先生は呼びかけています。

会社や学校などの人間関係の中で、互いの価値観の違いから、諍いが起こることはあるでしょう。
そんな時私たちはつい、自分の価値観を正として相手を裁きがちです。
お前は有罪だと宣告したくなります。
そうすれば自己を正当化でき、精神の安定を得られるからです。

でも、その精神的安寧の中に「愛」はあるでしょうか?

自分の価値観は自分の中で、行動の指針として保つ。
その上で、相手の価値観に敬意を持って接する姿勢が大切だと、私は思います。
人はそんな謙譲の姿勢にこそ、「愛」を感じるものではないでしょうか。
それを感じれば自然と相手も、愛をもって返してくれます。
「話し合いによる解決」とは、このような愛に基づかなければ、果たし得るものではありません。
その愛の交換の場に、神様は働いて下さるのです。

だからもし「参ったなぁ」と思うようなことがあったら、試しにこうしてみて下さい。
最初から最後まで口を挟まずに、全部相手の言うことを傾聴し、それから自分の意見を言うのです。
そうすれば意外と、互いに穏便な姿勢で話し合えるものですよ。
たとえ今はモメる関係でも、相互理解が深まれば、いずれ兄弟姉妹と呼び合える程の親しき仲になれるかもしれません。
もしそうなれたら素敵だと思いませんか?

私たちが、困難な状況に当たり、互いに愛をもって諭しあうことで、深い心の繋がりが育まれますように。
そう祈りたいと思います。

おしまい。

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富の在り処、心の在り処

こんばんは。

今、私には大きな悩みがあります。

それは「貧乏」。

諸事情あって、当面働くことが出来ない私。
収入がありません。貯金で食いつないでいる状態です。
残高、乏しくなってきました。
何とかなる。何とかなる、はず。
足りるはず。節約すれば。してるけどでも。でも!
時々、無性に不安になります。あーんもうどーしよー!!

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書 6:19〜21)

ボランティアでお世話になっているグループホームの社長が、私に言いました。
「あなたは今まで、お金のために仕事をしてきた。でもこの仕事は、人のためにする仕事。」
ゆえに、大きな価値観の転換が必要であると。
「人のためにする仕事からは、お金では買えない価値を得られます。だから私たちは、どんなに経営が苦しくても、この仕事をやめられないんですよ。」

この聖句と社長の言葉は、不安にある私を強く励まします。

今は、お金で買えない価値を、たっぷり得ればいい。
お金ではない富を、山ほど天に積めばいい。
色んな勉強やボランティア、教会への奉仕活動をたくさんしよう。
不安でたまらない時は、これらの言葉を思い出して、こんな風にポジティブ思考に切り替えます。

お金がないと生活は出来ません。だから、お金のために働くことも必要です。
私もまた、「お金のための仕事」を、近いうちに再開する計画を立てています。
でも、「富=お金」ではないのだということ、天に積む富・お金で買えない価値のありがたさは、その仕事でお金を得た時に、強烈に実感することだと思います。
私の心の在り処はどこかと、自問自答することでしょう。
だから今の時間はきっと、神様が私に下さった、すごく貴重な時間なのです。

きっと大丈夫。何とかなる。よし!がんばろう!!

今、仕事でお悩みの方、求職中の方も、ぐるぐると一日中悩みすぎずに。
人生は楽しむためにあるものです。思い煩うためにあるのではありません。
仕事が悩みの種になる、でも仕事をしないとならない。そんなジレンマに苦しむ時は、「仕事以外の時間」の過ごし方を考えてみて下さいね。
その時間、全く新しいことにチャレンジしてみるのも一つ、悩みを解決する方法ではないでしょうか?

皆さんが、仕事から来る悩みから解放され、楽しく生きがいを持って過ごせる時間を持てますように、祈りたいと思います。

おしまい。

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