三連休の最終日、さえない天気の福岡でしたが、皆さんいかがお過ごしでしたか?
私は今日は完全休日。ひたすら休息に当てました。
明日からまた元気に再起動!
さて、昨日の礼拝で、喜ばしいことがありました。
しばらく教会に来れなかった兄弟が、顔を出してくれたのです。
久しぶりと声を掛けたら、久しぶりと返ってきて、とても嬉しかったです。
ちなみに教会では、互いのことを兄弟姉妹と呼び合います。
男性の田中さんなら「田中兄(あに)」、女性の山田さんなら「山田姉(あね)」といった具合です。
一つの群れ、大きな家族です。
「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性は常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」(テモテへの手紙 5:1〜2)
とは言え、我々クリスチャンも人間同士。
年齢性別の違う者同士、共に過ごせば、問題も起ころうというものです。
クリスチャン限定の問題ではなく、一般社会においても同じことでしょう。
その点、二千年の昔から変わらないのですね。
使徒の一人、パウロ先生は、信徒へ宛てた手紙の中でこのように語っています。
あるものを食べる人もいれば、食べない人もいる。
ある日を特別に大切にする人もいれば、全ての日を同じように考える人もいる。
「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ローマの信徒への手紙 14:5)
「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(ローマの信徒への手紙 14:10)
同じ信徒同士であっても、互いに価値観の違いはある。
そんな時は己の価値観で相手を裁きたくなる。自分は正、お前は悪だと。
でも、裁くのは私たち人間ではなく、神だ。
だからもう兄弟同士で裁きあうのはやめ、愛に従って歩もう、とパウロ先生は呼びかけています。
会社や学校などの人間関係の中で、互いの価値観の違いから、諍いが起こることはあるでしょう。
そんな時私たちはつい、自分の価値観を正として相手を裁きがちです。
お前は有罪だと宣告したくなります。
そうすれば自己を正当化でき、精神の安定を得られるからです。
でも、その精神的安寧の中に「愛」はあるでしょうか?
自分の価値観は自分の中で、行動の指針として保つ。
その上で、相手の価値観に敬意を持って接する姿勢が大切だと、私は思います。
人はそんな謙譲の姿勢にこそ、「愛」を感じるものではないでしょうか。
それを感じれば自然と相手も、愛をもって返してくれます。
「話し合いによる解決」とは、このような愛に基づかなければ、果たし得るものではありません。
その愛の交換の場に、神様は働いて下さるのです。
だからもし「参ったなぁ」と思うようなことがあったら、試しにこうしてみて下さい。
最初から最後まで口を挟まずに、全部相手の言うことを傾聴し、それから自分の意見を言うのです。
そうすれば意外と、互いに穏便な姿勢で話し合えるものですよ。
たとえ今はモメる関係でも、相互理解が深まれば、いずれ兄弟姉妹と呼び合える程の親しき仲になれるかもしれません。
もしそうなれたら素敵だと思いませんか?
私たちが、困難な状況に当たり、互いに愛をもって諭しあうことで、深い心の繋がりが育まれますように。
そう祈りたいと思います。
おしまい。
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